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浅井長政の三女として近江国小谷(滋賀県湖北町)に生まれる

天正元年(1573年)、浅井長政の三女として近江国小谷(滋賀県湖北町)に生まれる。母は織田信秀の娘・市。

9月1日(1573年9月26日)、父・長政が妻・市の兄・織田信長と対立し、小谷城が攻め落とされ、父・長政、祖父・久政が自刃すると母・市、姉・茶々、初とともに城を逃れ信長に保護される。この時、兄・万福丸は信長の命により殺されている。

天正10年(1582年)、6月2日本能寺の変で伯父・信長が家臣・明智光秀に殺され、6月27日後継者を決める清洲会議により母・市は信長の家臣・柴田勝家と再婚し越前国北ノ庄城へ移る。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城、勝家と市の自害後は豊臣秀吉の元へ保護される。

天正12年(1584年)、秀吉の命により母の姉(織田信長妹犬)の子・佐治一成へ嫁ぐ。だが一成が小牧・長久手の戦いで伯父・信長の跡継ぎのことで秀吉と不和になった母の甥・織田信雄(織田信長次男)を擁立した徳川家康に味方したため秀吉の怒りに触れた一成は秀吉から所領を没収されるとともに離縁させられた。

文禄元年1592年、再び秀吉の命により秀吉の甥・秀勝(小吉秀勝。関白秀次弟)の元へ嫁ぎ、同年完子(九条忠栄室)を産むが、文禄の役で秀勝は死去。

文禄4年(1595年)9月17日家康の三男・秀忠に嫁す(再々婚)。なお、前夫・秀勝との子である完子は長姉・茶々(淀殿)の猶子として引き取られる。

慶長2年(1597年5月26日)、千姫(豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室)を京都伏見城内徳川屋敷で出産。秀頼の母は秀吉の側室となった長姉・茶々である。また、再嫁した本多忠刻の母は義父・家康の長男で秀忠の長兄松平信康と信長の長女・徳姫の娘である。

慶長4年(1599年)、珠姫(前田利常室、前田光高の母)を江戸城で出産。

慶長6年(1601年6月12日)、勝姫(松平忠直室)を江戸城で出産。松平忠直は義父家康の次男・秀忠次兄の結城秀康(松平秀康)の長男。

慶長7年(1602年8月25日)、初姫(京極忠高室)を伏見城(一説には、江戸城)で出産。京極家は次姉・初(常高院)の嫁ぎ先。だが、忠高は常高院の実子ではなく側室の子。

慶長9年(1604年)8月12日、家光を江戸城で出産。

慶長11年(1606年)、忠長を江戸城で出産。
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慶長12年10月4日(1607年11月23日)、和子(後水尾天皇中宮、明正天皇母)を江戸城で出産。

寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。法名は「崇源院昌誉和興仁清」。この時、秀忠・家光・忠長は上洛中であった。

寛永3年(1626年)11月28日、従一位を追贈される。

徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは後にも先にも彼女だけである。親族の死、政略や実家の跡継ぎ争いに巻き込まれた前半生とは違い、将軍御台所・将軍生母として安定した後半生を過ごした。

死後、江は二男・家光が増上寺(東京都港区)に埋葬した。

戦後、鈴木尚が中心となって行なわれた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。それによると、火葬にされており、生前の崇源院はかなり小柄で華奢な美女であったようである。ちなみに増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけであった。

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2009年05月30日 09:05に投稿されたエントリーのページです。

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